an essay on RADIOHEAD 2(1/17 2001)

KID Aの対訳を進める上で前にも増して明確に現れたいくつかの事象。それについて少し述べたい。
まず、KID Aの対訳は、他のアルバムのそれと多少その意味合いが異なるということ。motion picture soundtrackだけなら問題はなかった。というのも、この曲は少し様相を別にするものであったから。motion picture soundtrackに関しては前に述べたのでここでは割愛する。問題はその他の曲である。
「言葉を全部カットアップして、それをシルクハットの中に放り込んで適当に引っ張り出したりしていった。」
音楽の一部のストラクチャーとしての歌詞の構成。声さえもサンプリングして貼り付ける今回の作風。そういったものに表象されるものは、意識的に現実を盛り込むことをやめたにも関わらず、現実そのものであった。いわゆるモンタージュ的な世界構成。記号としての機能ばかりを合理的に繋ぐことで構築され、虚構化された姿こそが我々の生きる社会でなのある。
こういった側面を持つ言葉たちは、それまでのアルバムにおける歌詞群と比較して、理路整然さに欠ける。或いは、物語がない。あまり感情的でないと感じるところはここにあるのかもしれない。しかしながら、だからと言ってこれらの言葉に意味がないわけではない。それらは一様に現実を現しており、意味としての繋がりもある。逆に、一つ一つの言葉の重みは以前よりも重くなったと言えるかもしれない。
KID Aの対訳に関していえば、一部音楽系の雑誌或いは邦版のライナーノート付属の対訳を適用した部分がある。idiotequeにおける、
mobiles swirking
mobiles chirping
の携帯電話がぺちゃくちゃ、携帯電話がきぃきぃという部分がそうであるのだが、これは捉えようと思えば、例えばparanoid androidにおける、
please could you stop the noise
i'm trying to get some rest
的なnoise、或いはkarma policeでいうところの、
arrest this man, he talks in math
he buzzes like a fridge
といった、自分の世界から外部の切り離したいものであると言える。しかしながら、後に続く
take the money and run
との関連から、electioneeringに代表される、資本主義的な社会への批判として、つまり、消費社会を象徴するものとして捉えることも出来るのである。
それゆえに、全体としての歌詞はあくまでも現実というものについて歌ったものであるという事実をふまえ、あくまでもそこで起こっている事実の描写であるこの言葉を借用し、自分の対訳の中に放り込むということで、改めて現実の表象ということを浮き立たせてみた。
こういった捉え方、試みがどれほど意味があることであるかはわからないが、少なくともあの付属品である、理解に苦しむ対訳に価値を見出すという意味も含めて、価値はあったのではないかと自負している。

歌詞の詳細に関しては当HPの対訳を参照ください。